その11のつづき
ピアノ再開後、3人目となる先生は、自分より少しお姉さん?な感じの女性。ほんわかした感じで、ご近所の奥さんと言った雰囲気。この奥さん先生のお宅も、ピアノ室にグランドピアノが2台並んでいた。
例によって、ピアノレッスン用のレジュメを持参。ツェルニーを早く終えたいこと、奏法の強要はしないで欲しいこと等を了承していただいた上で、レッスンをお願いすることになった。
奥さん先生は、ハイフィンガー育ちで良くも悪くも昔ながらの指導法だったけど、およそ怒るなんて事とは無縁で、怒るどころか厳しい感じの事を言うような事も無かった。ま、大人が大人に対応するんだから、考えてみれば、これが普通なのかも。
ただ、ちょっと頼りないところもあった。ツェルニー40番の続きとインベンションをレッスンすることにしたが、奥さん先生はツェルニー40番は弾いたことがないという。ま、今時なら、そもそもツェルニーはやらないというのも普通だけど、私とほぼ同年代の奥さん先生の世代では、ツェルニーをやらないなんてのは、だいぶん少数派のはず。訊けば、ツェルニー30番の後は、40番をすっとばして50番をやった、しかも全部やってない、抜粋で少しやっただけだとおっしゃる。音大に行こうと決めたのが遅かったため、ちゃんと全部やる時間が無かったそうだ。
ま、別にやったことがなくても弾けなくても構わないのだが、それにしても限度があるというか・・・毎度毎度、曲を新たに弾くたびに「どんな曲だっけ?」「へぇ、こういう曲なんだ~」な反応。ピアノの先生に限らず、教授職全般のイメージとしては、教える前に予習というか、確認というか、準備というか、そんなのが当然あるものだと思っていたので、少々腑に落ちない気もした。
最初はそれなりに指導もあったのだが、内容的に納得できないことも多かった。たとえば、小節の頭には問答無用でアクセントをつけるようにと指導される。が、拍節感、拍子感を出す、というのはわかるが、いつ何どきでもアクセントをつけるというのはどうか。
中高生の時に習った先生は、
「拍節拍子感というものは、フレーズや伴奏形、和声などでも自然に出る。たとえば、ワルツの音型を4拍子に聞かせるなんて事は、逆に難しい。小節の頭に強拍を置くのは意識の問題であって、決してアクセントをつけろ、ということじゃない。同じような和声、フレーズが続いたりして、拍節感が薄いときに、アクセントではなく、強拍をつけて」
という指導だったので、自分もそう思っていた。
が、奥さん先生は、
「ここは小節の頭だから、アクセントつけて」と、小節線をまたいでいるロングなトリル練習の部分にまで、小節の頭にアクセントをつけろとおっしゃるのだ。いくらなんでも、トリルの最中にアクセントはつけないでしょう?と思って、やんわりとその旨を申し述べ、自分の考える通りに練習を進める。
ところで、ヘミオラという手法をご存じだろうか?
ヘミオラ (hemiola) とは、いわゆるポリリズムの一種で、主にバロック音楽やクラシック(古典音楽、特にベートーヴェン)などにおいて、3拍子の曲で、2小節をまとめてそれを3つの拍に分け、大きな3拍子のようにすることをいう。(Wikipediaより)
このヘミオラが出てくる曲や、一拍遅れでフレーズや伴奏が始まって一拍遅れたまま続くような曲があるが、こういうのは、リズムが崩されていたり、いわゆる強拍がずれたりして、おしゃれな感じになる手法なので、こういう場合は、譜面上の小節線と、実際の音の流れが一致しない。その、強拍が小節線とズレている曲でさえも、奥さん先生は、「ここは小節の頭だから、アクセントつけて」と指導するのだ・・・・
また、音楽には、緊張と緩和、緊張と解決、というセオリーがある。
ざっくり言えば、緊張とは属和音(ドミナント)のことで、解決というのは主和音(トニック)である。詳しくは、各自お調べいただきたい。
属和音は緊張で、音量としては大きく重くなり、主和音は解決・緩和で、音量としては抑えた感じになる、というのが一応のお約束であり、特に古典含め、古典より古い音楽では、ほぼ絶対的なセオリーだ。これはセオリーであるから、特に楽譜には記載されていないことが多い。
で、古典の曲などは、属和音が小節の最後の拍、主和音が小節の頭の拍に置かれるパターンが多いのだが、小節の頭に問答無用でアクセントをつけてしまうと、この音量を抑えるべき解決主和音が、属和音より大きくなってしまう。これは、お約束から外れたことなので、私などはかなり違和感を感じるのだが、奥さん先生は、主和音の方にアクセントをつけろ、とおっしゃるのだ。
おおよそ、奥さん先生のレッスンは、昔から日本で指導されてきて、現在においては修正されている弾き方、解釈である事が多かったため、自分としては、やんわりと、でも理論的にその旨を申し上げ、それでも通じない時には、頑張ったけどできませんでした風を装って、奥さん先生の指導通りには弾かないことも多々あった。
こうしているうちに、奥さん先生は、だんだん指導をしなくなった。でも、これは無理からぬことだと思う。奥さん先生にしてみれば、大人なんだし、好きなように弾かせて好きなようにレッスンを進めていけば、それで良いと、別に音大に進学するわけじゃないし、と思っていたのだと思う。
だから、奥さん先生から指導が得られなくなって、それなりに適当に弾けたら「もう十分じゃない?」と言われ、マルを貰ってどんどん進んでいっても、それは必然だったし、レッスンに通っては居ても、事実上の独学状態に陥ったのは、半分は、私自身の責任でもあった。
こんな感じで、ピアノのレッスンを受けている意味はほとんど無くなってしまったが、それでも、奥さん先生は私の好きなようにさせてくれてるんだと思い、これならこれで、このまま行っても別に構わないと、自分に言い聞かせながら、1年以上が過ぎていった。
この間、奥さん先生からの指導は望めない状態だったので、何か疑問が出てきたり、奏法で行き詰まったりした場合、自分で情報を検索したり、本を買って勉強したりしていたのだが、だんだん限界がやってきて、ピアノの壁を感じるようになっており、閉塞感みたいなものすら覚え始めていた。モヤモヤしていたが、それでも、奥さん先生のところを辞めよう、などとはカケラも考えてなかった。
しかし、その均衡状態がぐらつく時が、やってきてしまった。
つづく
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